龍馬を訪ねる旅というと京都、高知、長崎などをすぐに思い起こしますが、意外に知られていない龍馬の足取りで重要な地が福井。

神戸で開く海軍操練所の資金の援助を頼みに勝海舟に依頼され、松平春嶽を謁見しにに来るなど、龍馬の生涯で都合三回福井には来ています。(二回とする文献もありますが、三回とする説をここでは採用)

今回の龍馬フォトウォークでは福井での龍馬の足跡を訪ね、その撮影スポットをご紹介しましょう。

○福井城・御本城橋

1863年文久3年5月に勝海舟の指令で京都から二度目の福井へ来た龍馬は、神戸の海軍操練所を開設するための資金援助を頼むため前藩主・松平春嶽に謁見します。

その時の場所が福井城。御本城橋を渡って入城したと言われています。

まずは、この福井城が撮影スポットです。福井城内には、県庁などの建物があり、これらの建物が入らないように石垣とお堀を中心に撮るのがポイントです。

龍馬の福井の足跡


龍馬の福井の足跡


○松平春嶽像

海軍操練所の開設の立役者でもある春嶽の像は、二か所あります。ひとつは、福井市立歴史博物館前。こちらは新しい銅像で若かりし頃の春嶽の風貌です。

龍馬の福井の足跡


龍馬の福井の足跡


もうひとつは、春嶽を主祭神とする別格官幣社福井神社。昭和18年に創建され、銅像は春嶽の晩年のころの風貌です。

福井神社は福井城のお堀脇に位置します。

龍馬の福井の足跡


○横井小楠・由利公正

福井で春嶽に謁見した際、龍馬は後に影響を受ける人物と出会います。それが横井小楠。小楠は、肥後熊本藩士で春嶽に福井藩の政治顧問として招かれていました。

龍馬にとって小楠の影響は大きく、大政奉還の献策も小楠の著述の受け売りとも言われています。

大河ドラマ「龍馬伝」の20話で、龍馬が福井城にて春嶽へ資金の申し入れをするシーンにも小楠が同席しています。

そして、小楠は、龍馬をある人物と引き合わせます。それが福井藩士の由利公正。由利は小楠に師事。藩の財政を学びます。後の明治4年には東京府知事に就任。五箇条御誓文は由利の発案。龍馬にも多大な影響を与えます。

福井で龍馬にとって大きな出会いとなった二人の銅像が福井城のお堀脇にある内堀公園に立っています。

龍馬の福井の足跡


「旅立ちの像」名付けられた二人の銅像は、九州に旅立つ姿を表したもの。

龍馬の福井の足跡


福井市内を流れる足羽川(あすわがわ)をはさんで二人の住居跡にも碑が建てられています。
こちらは横井小楠寄宿跡の碑。いまは一般民家の軒先に建てられています。
龍馬の福井の足跡


川を挟んであるのが由利公正宅跡。小楠に連れられて由利宅に招かれた龍馬は意気投合したとのこと。

龍馬の福井の足跡


由利宅に向かうのに龍馬も渡った足羽川。どことなく高知で龍馬がよく泳いだともいわれる鏡川にも似た雰囲気。龍馬も足羽川を見て故郷を思い出したのかもしれません。

龍馬の福井の足跡


○莨屋旅館

最後に龍馬が福井を訪れたのが、1867年慶応3年の10月の終わり頃。

この時に福井で龍馬が宿泊したのが莨屋(たばこや)旅館。謹慎処分中の由利公正は、藩の許しを得て龍馬に会いにこの莨屋旅館を訪れます。

延々16時間にも渡って新政府について議論したといいます。龍馬と由利はよほど気が合ったのでしょう。この日は11月2日。翌3日には、福井を発ち京都へと戻ります。京都に着くのは5日のことです。

福井から京都に戻ってわずか10日後の11月15日、近江屋にて龍馬は暗殺されてしまいます。


福井から京都に着く道中で龍馬は風邪をひいたらしく、ここで風邪をひかなければ近江屋で部屋にこもってもいなかったかもしれず、歴史が変わっていたかもしれません。

この莨屋旅館は、龍馬の最後の地への布石になる場所といってもいいのではないでしょうか。

龍馬の福井の足跡



龍馬の足跡で割と軽く触れるだけの福井は、こうしてみると重要なポイントを含むものです。龍馬ファンはぜひ福井へも足を延ばして各箇所を撮影してみてください。

各所の詳しい場所などは、坂本龍馬を福井でたどる旅をご参考にどうぞ。